映画「哭声/コクソン」

コクソンという山間の村で、村人が奇病にかかり家族を殺すという事件が連続して発生。山に住む日本人が関係しているという噂が広まる。主人公は警察官で、事件の解決に乗り出すが、やがて自分の娘が奇病にかかり、日本人を殺しに行く。

クライマックス、目撃者と主人公の対話では、祈りのようにただ必死に言葉だけが交わされる。しかし目撃者が「言葉が届かない」と思って主人公の手に触れたとき、対話は終わり、祈りは途絶える。

町山智浩の映画ムダ話の解説によると、監督は、目撃者(白い女の人)をはっきり「神」と説明しているとのこと。町山智浩の映画ムダ話45 ナ・ホンジン監督『コクソン 哭声』。 國村隼の正体は? 白い服の女は...

この解説では、神の力の限定性についていくつかの説明を行っている。上記のクライマックスから、また別の説明を考えてみた。

神が超常的な力を及ぼすことができるのは、超常的な領域(山の日本人、祈祷師)に対してのみで、結局、人間の領域では、神は(神と人間が共に有している力である)「言語」でしか人間に介入ができない。そして言語の力が限定されているという点において、神と人間の力は同じように限定される。その限定性に耐えられず、主人公の手を握ったとき(超常的な領域の力を発揮しようとしたとき)、主人公もまた超常的な領域への(確実なものがないことへの)不信によって己だけを信じる世界へ帰っていく。

ラスト前の神の涙は、人間に介入しきることのできない自らの不能性と、超常的なものを信じながらも信じない、人間の「人間性」の強固さを思って流れたものだと思った。